渋沢栄一と養育院(東京都健康長寿医療センター)
#渋沢栄一:養育院長(明治22年~昭和6年)
渋沢栄一銅像:板橋区登録有形文化財
#NHK大河ドラマ「#青天を衝け」
#新一万円札
センターの入口近くに渋沢栄一の銅像が飾られています。 銅像は1925(大正14)年に制作され、栄一本人も出席して除幕式が行われました。
渋沢栄一と当センターとの関わり
(地方独立行政法人 #東京都健康長寿医療センターHPより)
明治の初め、首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として現在の福祉事業の原点ともなる養育院が設立されました。
そのときに資金源とされ、#養育院 の設置資金にも使われたのが、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「#七分積金」でした。
(余談)
「七分積金(しちぶつみきん)とは、寛政の改革の際に江戸町方に命じた積立制度である。町入用の節減分の7分(70%)を積立させた。
明治維新後の明治5年(1872年)に明治政府によって170万両とも言われる積立金が東京会議所(旧・江戸町会所)から、東京府や東京市に接収された。東京市はその多くを学校の建設や銀座などの近代的な道路整備などの社会基盤整備事業に充てられた。」
明治になり、当時七分積金(営繕会議所共有金)の管理を担当していたのが「#日本資本主義の父」渋沢栄一でした。
渋沢栄一は1874(明治7)年より養育院の運営に関与し、1876(明治9)年5月11日に養育院事務長に任命されました。
養育院は、1890(明治23)年、東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任しました。以来91歳で亡くなるまで約50年間院長を続け、養育院廃止論の逆風を受けながら養育院を存続させ、分院・専門施設を開設して事業を拡大しました。
松平定信・大久保一翁・渋沢栄一と受け継がれてきた江戸・東京の福祉事業の歴史は戦後もつづき、現代の東京都健康長寿医療センターの設立につながっています。
養育院・渋沢記念コーナー
(病院2階) 平日 9:00~17:00
明治5年に養育院としてスタートしてから、現在の東京都健康長寿医療センターに至る約140年の歴史。
初代養育院長渋沢栄一のもと事業展開に貢献した先人たち、養育院から派生分化した専門施設、戦後の高齢者医療・福祉・研究の歩みを紹介しています。